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060611 常総市の坂野家住宅(そして研修制度について)
覚園寺を一緒に葺いている奈良のタナカさんが、重要文化財坂野家住宅の門を葺き替える現場に、若手の職人数人を研修生として迎え入れて、茅葺師技術現場研修会を催すことを社団法人全国社寺等屋根工事技術保存会から委託されたそうで、雨の日に茨城県常総市まで下見に行って来ました。
カマボコ型の丸い棟や、ケラバ(切り妻の端)に見られるスプーンでえぐったような形の大きな蓑甲(ミノコ)など、いかにも関東風なかたちの屋根でした。
研修という形で関東の葺き方を研究しつつ、じっくりと屋根葺きに取り組めるというのは、何とも魅力的な機会だと思います。ですが、せっかくタナカさんの指導を受けられるのであれば、奈良の屋根を会場とした研修会にしてくれたら良いのに、とも正直なところ思わないわけではありません。
こちらは、母屋。北関東の屋根の見本のような、趣向を凝らしたつくりです。
まだ新しくて、聞くところによると昨年葺き換えたばかりとか。と、いうことはこれを葺かれた職人さんはおそらく現役でご活躍されているでしょうから、ここの門で研修会を催すなら、その方を講師にお招きしてはどうかとも思ってしまうのです。
(社)社寺屋根による研修会には僕も参加させて頂いたことがありますが、普段離れた地域で仕事をしている若い屋根屋が集まって、一緒に仕事をするというだけでも職人としての視野を拡げたり、自分を客観視することのできるまたとない機会を与えて頂きました。
ただ、地域による特色の強い茅葺きという技術で、なおかつローカルな技術の継承を重視しなければならない文化財の葺き替えにおいて、講師として来て頂いた職人さんが(個人としての力量はもちろん見事なのですが)、必ずしもその屋根に精通する地元の方ではなかったことは残念に思いました。
茅葺きの豊かな地域性は必然によってもたらされた形態のはずなのですが、その意味を理解し技術を引き継いで行くためには、残り時間のあまりの少なさに焦りを感じずにはいられません。
0610 庭石菖・小バコのライブ
境内に多くはない日当りの良い場所に、ニワゼキショウが咲き始めました。
地味ですが好きな花です。これ、美山の我が家の小さな庭にも夏中咲き続けてくれます。もう、そんな季節になったのか。
不在の間に自宅の周りは造成工事でユンボが走り回っているので、帰宅してももう当分は見れないかも知れません。毎年一輪だけ咲いていたササユリや、一叢のミズヒキソウも絶えてしまったかも。
ところで、平均年齢が60歳を下回らない宿舎は消灯時刻が夜8時半なので、毎晩のように鎌倉の街で家出少年になっていますが、あまり他人と話さずにただぼんやりと過ごしたり、溜まっているデスクワークを片付けたり本を読んだりしたいときによくお世話になっているcafe Goatee で、今夜はエリック・バックマンのソロライブがありました。
P.A.無し、小バコでのライブは、そこにいる全員で雰囲気を作り出して行く一体感が楽しいです。
鎌倉は小さな街なのに(しかも夜が早いのに)週末毎にどこかでライブが行われていて、神戸にいた学生の頃以来の、音楽漬けな日々を送らせてもらっています。
梅雨が明けて海の家が開くと、そこでもライブが行われるとか。楽しみです。
0606 屋根めくり(3回目)
最後の屋根めくりです。
棟収めは地域による違いの顕著な箇所なので、棟の解体に際しては前回のやり方を参考にできるように、検証しながら行います。
僕が現場入りした時点で雨養生の瓦は既に取り外されていましたが、休憩に縁側をお借りしている、境内に移築された旧内海家住宅の棟と同じように、瓦が重ねられた棟だったそうです。
これ、最近どこかで見たなと思ったら、ナショナルトラストのシンポジウムで茨城の八郷を訪ねた折、当地で見たものと同じ収め方でした。
これが常陸風土記の丘公園にあったものです。基本的に同じ手法ですね。
屋根をめくって行くと、葺き方にも関西では見られない特徴がありました。
角の部分を独立してつくるのではなく、平面を押さえた竹をそのままコーナーに沿って曲げて、同じように押さえています。また、角の両脇を足場を吊る縄で仮押さえして、その痕跡が残っています。
こちらは常陸風土記の丘公園で見学させて頂いた現場の写真。びっくりするくらい、全く同じ手法です。
つまり、鎌倉もいわゆる「筑波茅手」の活躍の舞台だったのか・・・いや、地元相模の屋根屋さんがいなくなってから、呼ぶようになったと考えた方が自然かな・・・
参考までに、これは美山での角付けの様子。
コーナーの部分を先につくってから葺くので、押さえの竹は角の部分は押さえません。
これは藍那の交流民家。
角のエッジを立てれば、コーナーまでしっかりと固めて葺くのは難しくなります。
関西では面や角をきっちりと出すことに気を配ります。
関東の屋根は素晴らしい装飾に注力し、面や角のバランスや仕上げには、ある程度おおらかです。
コーナーも押さえ竹でまわり込むようにして仕上げれば、角のエッジを立てるのはちょっと無理です。
ちなみにイギリス南部の伝統的な茅屋根の葺き方や仕上げも、筑波流と同じような考え方をしています。
つくづく日本は多文化国家だなあ。
下地の上には屋根を葺く前に、10㎝ほどの厚さに茅が敷き詰められていました。
主に葺き材の先が下地の下に入り込むのを防ぐためですが、特に下地も傷んではいないのでそのままにしておきました。
0604 鎌倉の現代住宅とか
捗らないと思いつつも、いつのまにか結構進んでいます。
文字通り日々の積み重ねでここまで来ました。
まだ、葺き上げ残り3分の1、棟収め、刈込み仕上げが残っていますが、何とか折り返し点は過ぎましたね。
明日あたりいよいよ最後の屋根めくりをしなければ。
ところで骨太なのに繊細で、桟瓦と下見板張りの外観が特徴的な、大正昭和初期の鎌倉の木造住宅を誉めたたえておりますが、新築の住宅でも何となく鎌倉っぽい雰囲気を持つものを多く見かけます。
何が鎌倉風かと問われると困るのですが、杉板とモルタルが外観のデザインコードになっているような気もします。
そういうのが流行なのだと言えばそれまでですが、良いデザインが流行ることが美しい街並を育んで行く訳ですから。
そんな鎌倉でも、マンション開発は盛んなようで。
集合住宅の高さ規制が5階までというのはさすがと思いますが(最近まで3階だったとか!)、マンションが増えると景観だけではなく、コミュニティの在り方も変わって来ますから、街の性格がどんな風に変わるのか変わらないのか。
0602 Corazon/Rihito Masuyama
鎌倉に来た頃は、境内の木陰は射干(シャガ)の咲き初めだったのに、いつのまにやら紫欄(シラン)が満開に。
屋根は仕上がらないのに、季節は移り変わって行きます。
ところで、由比ケ浜のジュルネに晩ご飯を食べに行ったら、増山リヒトさんの写真展 corazon が始まっていました。
壁にかけられているのはラテンアメリカの、明らかに貧困層の子供達の写真。彼らの置かれている環境に反して写真の雰囲気が明るいのは、原色に彩られた街と何より子供達が笑顔であること。
良い写真というのはピントがどうとかというよりも、まず被写体が良い表情をしているかどうかだなあ、などと思いながらひととおり写真を眺めて、リヒトさん本人は他のお客さんの応対をされてるし、ご飯が出来るまでの時間つぶしのつもりで「corazon journal」なるレポートを読み始めたのですが、すぐに引き込まれて2年間に渡る活動の記録を一息に読んでしまいました。
リヒトさんはニカラグアに青年海外協力隊員として、孤児院での情操教育に携わるために赴任したものの、受け入れサイドのいかにもラテンアメリカらしいトラブルに巻き込まれて、スラムでのストレートチルドレンの救済にあたるNGOに派遣されてしまいます。
畑違いの業務内容、想像を絶するヘヴィな環境、やる気の無い派遣先。リヒトさんは任期の間を週末のサーフィンを息抜きとしながら、与えられた仕事の無意味さにただ耐えてやり過ごしてしまうことも出来たのだろうと思います。
でも、彼は誰に頼まれることもなく毎日スラムの一角で、学校へ行けない子供達を集めて読み書きアートを教え始めました。
彼は笑顔の子供達を写真に撮ったのではなく、彼の助けを借りて笑顔を取り戻していく子供達が写った写真だったということを知って、随分と感動してしまいした。30過ぎてから涙腺が緩くなったかなあ。
レポートの内容をお伝えできないのが残念ですが、近くサイトを立ち上げるらしいので、その時をお楽しみに。
060528 茅葺きシンポ2日目
ナショナルトラストの茅シンポ、2日目は会場周辺で茅葺き屋根の見学会です。
ここは軒と棟の装飾にとことんこだわる職人集団、「筑波茅手(かやて)」の本場だけあって、案内して頂いた屋根には、いずれも見事な意匠が施されていました。
しかし、町内に車を走らせていて、それらの立派な茅葺き屋根以上に目を引いたのが、門。やたらとお寺の多い土地かと思いきや、全て普通の住宅の門でした。
筑波茅手による見事な装飾は、雪の無い土地柄故に、冬場に磐越各地から出稼ぎに来た職人たちが腕を競った結果だという解説がなされましたが、腕を振るうにもまず、華美を求める施主の意向があればこそだったはずです。
「手間がかかっても、長持ちしなくても、とにかく立派な棟を!」という住人の気概に追われて職人も腕を磨いたのでしょうが、その我が家にかける情熱が茅葺きの少なくなった現在、門に向かって噴き出しているのでしょうか。
門とバランスを取るためか、住宅の方もこのとおり。
ここまで来ると、立派にパンクしてますねえ。既存のモラルなど超越して突き進む!
まあ、脇町のうだつもサンジミジャーノの石塔も、かなりの程度まで勢いで突っ走った結果生み出された景観な訳で、茨城の農村で弾けるデコラティブ和風木造住宅群が、後年どのように評価されるようになるのか、なかなかに興味をそそられるところではありますが・・・
話を茅葺きに戻します。
「霞ヶ浦のしまがや」なる茅材がどのようなものなのか、かねてから気になっていたのですが、常陸風土記の丘公園の茅葺き建築修復工事を見学した際に、実物を見せて頂くことができました。
関西で「あやめ茅」と呼んでいるものと同じだという事が解りましたが、あやめ茅はとても使いやすいものの、まとまった数が採れないため難しい場所にだけ使う貴重品であるのに対して、風土記の丘公園に建つ大量の茅葺き建築群の、ほぼ全てがしまがやだけで葺かれるほどの収穫があるという話に驚かされてました。
しまがやで実際に葺くところも見学させて頂きました。写真を撮っている僕も含めて、わらわらと群がる若造職人たち。
おまけ。風土記の丘公園にありました。
小さな屋根を葺くのは本当に難しく、これなど正しくしまがやがあればこそというところでしょう。
「やり過ぎ」という声もありましたが、高度な職人技を遊び心に包んで置いてあるようで、僕は楽しいと思いました。
060527 茅葺きシンポ初日・男鬼のこと
茨城県石岡市(旧八郷町)で開催された、(財)日本ナショナルトラストが運営する「全国茅葺き民家保存活用ネットワーク協議会」のシンポジウムに参加して来ました。
あいにくの天気(仕事を休むには良いタイミングですけれども)ではありますが、筑波山の麓にはのんびりとした空気がひろがり、分蘗のすすむ早苗田からはカエルの声が。
パネルディスカッションが各パネラーの報告で時間切れになり、ディスカスにまで至らないのはいつものお約束ですが、個々の報告の内容はそれぞれ興味深いものでした。
しかし、それ以上に興味を引かれたのが、滋賀県から参加されていたカメヤマさんが手渡してくれた「よみがえる ふるさと 男鬼」というパンフレットで、思わず会場で読みふけっていました。
男鬼(おおり)とは滋賀県彦根市にある山村集落で、人が住まなくなって30年以上経つ現在でも、旧住人等による営みが続けられて来た事もあり、良好な集落環境を保っているそうです。
パンフレットは滋賀県立大学人間文化学部有志「男鬼楽座」による調査報告を元として、男鬼の魅力を紹介することで、これからを考える活動への関心を高めていく内容となっています。
集落をそれをとりまく地理的風土、自然環境、景観要素、建造物とフォーカスしていく調査手法は、自分も環境デザイン学科在学中に繰り返していたので懐かしく思い返したりしましたが、さらに人の暮らしの詳細をそこでの一生、一年、一日、日々の作業の内容と解きほぐしていく解説は新鮮でした。
人々の営みの積み重ねが景観となるのであり、美しい景観に対してはそれを支えて来た暮らしの在り方を理解しようとするアプローチは、茅葺きを文化財として祭り上げるのではなく、日常の延長上に留め置くための生活スタイルを模索する自分のスタンスと、重なるところが多く共感を覚えます。
廃村の再生活動はいくつかの事例を見て来ましたが、ハードとしての建造物の保存に偏ってしまったり、人を集めるためのイベントを用意しても、周辺の自然の活用にまで気が回らず景観の維持に至らなかったりして、残念ながらあまり上手く行っている例にはこれまで出会えませんでした。
日々の生活を支える経済活動として繰り返されて来た自然と共存する農山村での暮らしを、ボランティアや公共事業というかたちだけで引き継いでいくのは難しいということもあるのでしょう。
それだけに、そこでの人の暮らしと集落を取り巻く環境を俯瞰する視点を合わせ持つ男鬼楽座の活動が、今後どのような展開を見せるのか大変興味深いところです。
実は、滋賀県東北の岐阜との県境の山中には、豪雪地帯のため早めにトタンが被せられたせいなのか、茅葺きの占める割合が今でもとても高い集落が多く見られますが、過疎化の進むそれらの集落を蘇らせるようなモデルにまでなれば、湖北山村独自の新しい茅葺きスタイルが確立されるかも・・・
0526 続・葺き上げ工程
必要な量の茅を並べ終えたら、竹で仮に押さえて固定し、叩いて屋根の形を粗く出しておきます。
仮押さえの竹は、茅を束ねていたサンバイコウと呼ばれる縄を再利用して、先に中押さえに張った縄に綴じて固定しています。
ところで、モノを束ねるために用意する短い紐のことを、サンバイコウと呼ぶのですが、語源もどのような漢字を当てるのかもさっぱりわかりません。どなたかご存知でしたらぜひ教えて下さい。
茅がしっかりと押さえられる適切な位置を選んで、本番の押さえの竹を配置して、屋根裏に「針受け」に入ってもらった人と協力しながら、大きな針を使って屋根下地の垂木に針金で縫い止めて行きます。
表面から少しずつ風雨にさらされた屋根が減って行き、この竹が表れてしまったときが屋根の寿命となります。ですから、竹から奥に敷き並べる捨て茅は文字通り捨てているようにも見えますが、それによって茅の角度を適切に保てるように調節する事が、強く美しい屋根を葺くために一番必要な条件です。
押さえ竹を縫い止めるときに、足場の丸太を吊るための紐も、屋根下地の母屋からとっておいて、仮押さえの竹を外して足場丸太を吊ります。
足場丸太に乗って、押さえの竹を足で踏みながら針金を八分の力で締めておきます。
それから、屋根表面を叩き揃えて形を整えます。
あらためて、数人並んで呼吸を合わせながら押さえの竹を足で踏みつけ、針金を締め上げてしっかりと固定します。
最後にもう一度叩いて揃えてから、足場丸太を屋根の表面になる位置まで下げて止めます。
今回は屋根全面の葺き替えをしているため、以上の作業を東西南北の四面で繰り返しながら上がって行きます。
フリダシに戻る。
ところで、鎌倉にいながら何となく観光スポット特有の気配が感じられて、これまで海の方へ行くのを避けて来てしまったのですが、今日は由比ケ浜の住宅地の中を散歩していたら、ある地点から風に潮の香りが混じるようになって、もともと神戸の海のそばで育った人間なのでとても懐かしい気持ちになって、誘われるままに海岸まで足を延ばしてしまいました。
やっぱり、海を眺めると心が落ち着いて気持ちが良いです。
でも、今日は風が冷たくてTシャツでは少々つらかったので、海岸道路に面した店に逃げ込んだら、小柄なバーニーズマウンテンドッグが出迎えてくれたお店が、Daisy's Cafeでした。
0524 葺き上げ工程
茅葺きの基本、まず両角をつくって屋根の角度と一工程で積み上がる高さを決めてから、茅を並べ始めます。
茅屋根の厚さは材料を適切な勾配で無理なく並べると、普通は自ずと決まって来るものです。しかし、覚園寺の場合は巨大な軒を付けたために、通常ススキで葺くよりもかなり分厚くなっています。そのままでは奥が深い分だけ茅が寝すぎて、雨水が屋根の中に伝ってしまう逆勾配になってしまいますから、屋根めくりの際に取っておいた古茅を奥の方に充分敷き込んで茅が適切な角度まで起きるように調整してやります。
曽爾高原の茅は5尺〆の量が一束にまとめられているため、一つの束の中に長めのものや短めのなど色々な茅が入っています。
短めのものを下に、長めのものを上にして2層に茅を並べます。工業製品ではありませんから茅はある程度曲がっているのが普通ですが(たまに許し難い程曲がっているものもありますが)、曲がりを読んで隙間が空かないように上手く並べてやります。
覚園寺の軒は1m近くありますが、ススキを材料として葺くのに適当な厚さは40〜50㎝くらいなので、棟まで軒の厚みのままで葺き上がると莫大な量の茅が無駄に必要になってしまいますので、茅屋根の厚みは軒に向けて徐々に薄くなっていくようにしておきます。
結果として屋根表面の勾配は下地よりも緩い勾配となります。緩い勾配の屋根では一工程の始めに並べた茅の先端から最後に押さえる竹までが遠くなり、押さえが効きにくくなるため、半分の厚みまで茅を並べたところで一度軽く押さえておきます。
ワラ縄を端から端までピンと張って、1尺おきくらいにシュロ縄で一つ下の押さえ竹に綴じます。縄を使う事でさらにこの上に並べる茅ともよく馴染み、屋根の表面に隙間が口を開けたりする事もありません。
半分並べたところでさらに奥に古茅を敷き並べます。「捨て茅」とか「のべ茅」と呼びます。捨て茅は適宜行い材料の茅が常に適切な勾配を保つように気を遣います。
縄で押さえた上にもさらに茅を並べて角の両角の高さに合うように積み上げます。角度を付けて置く茅はどうしてもずれて落ちてくるので、角の勾配に合わせて叩き揃えたときに高さが揃うように、計算しながら並べる量を決めます。
茅は寝かせすぎると逆漏りしますが、起こしすぎても屋根表面が粗くなり雨漏りの遠因になります。
つづく