ナカノさんの美山茅葺株式会社が若狭小浜で萬徳寺という大きなお寺の屋根を葺いておられます。
刈込み仕上げの最後の最後をちょっとお手伝いするために行って来ました。
本当に大きな屋根です。
我々茅葺屋が藍那にいた冬からずっと、手仕事を積み重ねてここまで葺いて来られました。美山は小浜から峠一つ越えただけの丹波の北西端ですが、雪の中を峠を越えて通うのはさぞかし大変だったことと思います。ご苦労様でした。
ナカノさんの美山茅葺株式会社が若狭小浜で萬徳寺という大きなお寺の屋根を葺いておられます。
刈込み仕上げの最後の最後をちょっとお手伝いするために行って来ました。
本当に大きな屋根です。
我々茅葺屋が藍那にいた冬からずっと、手仕事を積み重ねてここまで葺いて来られました。美山は小浜から峠一つ越えただけの丹波の北西端ですが、雪の中を峠を越えて通うのはさぞかし大変だったことと思います。ご苦労様でした。
あいな亭を一緒に葺いていた、「飛騨かやぶき」のスギヤマさん
の現場に応援にやって来ました。
岐阜市内の縄文遺跡公園に建つ復元縦穴住居の葺き替えです。
稲作の一般化していない縄文時代にはワラ縄はありませんから、「ネソ」と呼ばれる雑木を曲げて屋根下地の構造材を組んで行きます。
ネソはスギヤマさんの地元の北陸地方では伝統的な建材として用いられていて、今回は応援と言いながら、その扱いに関しては日本でも指折りの屋根屋さんであるスギヤマさんに教えを請いに来たようなものです。
ネソの正体は早春の山を彩るマンサクの若木です。
伐り出したあとしなやかさを失わないように水に漬けてあるネソには、間違いなくマンサクの花が咲いていました。
木の内部が凍ったままで曲げると折れてしまうので、まず焚き火で樹皮が焦げて落ちるくらいまで炙ります。
さらに全体を絞り上げるようにねじって、木の繊維をほぐしておきます。
慣れていないと力のかけ方がわからず、からだ中が筋肉痛になってしまいました。
木のねじれが戻ろうとする力を利用して丸太を結束して行きます。ネソは乾燥が進むにつれてより強く締まって外れることは無いそうです。
縄文時代まで遡らずとも林業を生業として栄えていた飛騨地方では、稲作の副産物であるワラ縄よりもマンサクの若木の方があたりまえの材料でした。
外から見ただけでは判らなくとも、茅葺き屋根を支える技術や材料は実に様々です。現代の茅葺きを支えるに相応しい技を見極めるためにも、永く伝えられて来たそれぞれの技術に関する理解を、少しでも深めて行きたいと思います。
主構造材の解体は、縄による結束を切断しながらレッカーを使って行うと、安全に効率よく進められます。
かつてはこれを組むのもばらすのも、人力のみによっていたわけで、大変な作業だった事でしょうが、その手順がどのようなものであったのか、興味は尽きません。
棟木を支える合掌材の根本は、渡りあごを噛んで桁の上に乗せてある梁の端に差してあります。
美山の場合はホゾを切って差してありますが、地域によっては合掌材の根本を鉛筆のように尖らして、梁材のくぼみに置いてあるだけのことも珍しくはありません。なるべく柔らかな構造とするように、配慮されているのです。
この合掌材の上にヤナカ(母屋)が乗り、その上に並べられ桁の外に至るレン(垂木)とともに縄で結束され、一体となって建物に籠を被せたような構造となっています。
レンとヤナカとの結束も縄によります。釘と異なり抜けたり折れたりする心配がありません。
レンの頭はこのように、尖らせたものと穴をあけたものを2本1組として棟木に架けてありますから、縄による結束でも滑ってずれるということもありません。
茅葺き屋根が取り除かれた「茅葺き民家」。屋根と建物部分が全く別構造である事がご理解いただけたのではないでしょうか。
この上にあらためて「基礎」を組み、2階を「建てる」ことになります。
そのため、もともと2階建てを前提とした構造に比べると、茅葺き屋根を下ろして2階を乗せた家は、随分と腰高になってしまい、1階の天井(吊り天井)と2階の床とのあいだに、利用されない大きな空間が生じてしまいます。
美山では子供部屋を確保するために、茅屋根を下ろして2階を上げたという方が多くおられます。こちらのお宅では、定年を迎えてUターンされるご子息のために、2階が必要となったということです。これからはそのような需要も増える事でしょう。
その際、「砂木の家」で試みたような、吊り天井の上の空間をロフトとして活用するプランが実用化すれば、茅葺き屋根のままに、必要な居住スペースを確保できるようになるのではないかと考えています。
2階を上げる工事を行うよりも安価に済ませられるはずですし、何より「後戻りできない一線」を越える必要がなくなります。
茅葺き民家の不動産としての将来性は未知数ですが、欧州諸国での事例を見るまでもなく、その価値が急速に高まる事は充分にあり得ます。一旦茅葺きであることを止めてしまうと、元に戻すのは非常な困難を伴いますので、所有者の方にとっても必要な性能を満たしさえすれば、「茅葺き民家」のまま維持しておく価値は充分にあると思うのです。
砂木の家のご近所で、茅葺き屋根の解体があったのでお手伝いに行きました。
「茅葺き民家の解体」ではなく、茅屋根を下ろして2階を継ぎ足す工事です。
籠状の構造の茅葺き屋根は、重機で無理に壊そうとしても力を分散するので、思ったようには壊れず散らかったり、危険なこともあります。
人の手で解体した方が結局手間が少なく、丁寧に取り外す事で、分別して再利用できる部材も多くなります。
葺くのとは逆の手順で、上から下に、棟の解体から始めて、最後に軒を取り外します。
丸太のレン(垂木)を放射状に配した「寄せ棟」の構造に、破風(煙出し)の部分を継ぎ足した、美山で一般的な入母屋の造り方が、よくわかるかと思います。
外観は同じような入母屋の茅葺き屋根でも、丹後の旧永島家の下地は、垂木を平行に並べた「切り妻」の構造に、破風の下側となる軒部分を妻側に継ぎ足した造りでした。
2日がかりで茅と竹を全て取り外しました。
小屋組の構造は、合掌材と棟束を併用して棟木を支え、そこに2本1組に組んだレンを架けて行く、比較的新しい構造です。
レンにはナラなどの雑木と杉が少し混じっていますが、このあたりで戦前の建物によく見られる、アカマツが主体でもあり、少なくとも屋根部分は近代のもののように思えます。雑木のレンは古い建物からの再利用、杉のレンは茅屋根葺き替えの際に補修されたものではないかと思います。
棟木の立っている立派な部材ナカオキは、やはり梁の上に並べた天井板の上に置いてあるだけで、下方の柱組とは繋がっていません。
シオザワの母校である神戸芸術工科大学で、かつて学生を指導しながら一緒に制作した茅葺きの方丈庵が、新校舎建設の用地にかかりるということで、取り壊される前に解体しに行って来ました。
在籍中の茅刈り活動が現在の茅葺屋の礎となったように、神戸芸術工科大学では神戸市が全国有数の茅葺きが残る地域であることを明らかにし、さらにそれらをサスティナブル建築、環境共生住宅、生態系保全、都市と農村との交流機会など、環境デザインの視点から評価する研究活動が活発に行われて来ました。
この方丈庵でも実際に茅屋根葺きを体験することで、茅刈りに参加する学生の技術とモチベーションの高まりを期待していました。もちろん、身近に茅葺きの建物があることで、建築として評価する機会としても活用していってほしかったのですが・・・
めくりながら再使用可能な茅はまとめて、畑行きの茅とは分けてはおきました。それらは研究室のメンバーが保管場所まで運んでくれましたが、再利用できない茅は畑に行くあてが無く産廃扱いとなるようです。
解体に際して学部の学生が誰も来なかったのは寂しいですね。夏休み中ということもあるでしょうが。
学内でも茅刈りなど行われるようになって、多少なりとも茅が刈り貯められていたら、別の場所でまた葺き直すということも検討できたのですけれども。
この建物がそこまで学生に愛され無かったということについて、滋賀県立大や立命館大学での、独創的な切り口での茅葺きに関わる活発な活動を見て来たこともあり、もっと学生の興味を引き出すような方法があったかもしれないと、責任も感じています。
同時に「デザインの大学」であるはずの母校が、敷地内の茅葺きや雑木林といった資産を活かせず(デザインできず)、ファッションとしての建築やCGアートなどに偏りつつあるように思えて心配です。僕はこの大学で「茅葺きが環境デザインである」ことを学んだのですが、現役の学生がそのような薫陶を受けられそうな空気は、随分と稀薄になっているように感じました。
茅葺きの方丈と並んで建っていた、かつての在校生が版築工法を用いて建てた、土の実験住宅も取り壊されました。草や土の小屋が建ち並ぶ様は、現代の建築デザインの最先端モデル展示場のようで壮観だっただけに、仕方の無いこととはいえ残念です。
このブログを訪ねて下さっている皆様、長らくご無沙汰してしまって申し訳ありませんでした。
5月は丁稚サガラと二人、あちこちの現場へ助っ人に渡り歩く毎日で、あまり工程の参考にもならないと思い、ブログの更新も滞ってしまっていました。
しかし、手(葺く技術)の揃った職人集団が、それぞれの現場に責任を持ちながら協力し合える体制が整えられているからこそ、ここぞというところだけ少し手助けに行くということも出来る訳で、それは大工さんや左官屋さんの世界では当たり前に行われていることなのでしょうけれども。屋根屋(茅葺き職人)でも私共のグループでは、後継者難がどうこうという状況から脱して、そういったことを当たり前として、お施主さんと接することができるようになりつつあることを知って頂きたいという思いもあり、今さらご迷惑かなとも思いましたが、1ヶ月分のブログをまとめて更新してしまいました。
興味がございましたら、お時間のある時にでも読んで頂ければ幸いです。
さて、永谷宗円生家の刈込み、続いています。
軒裏を刈り落とし、軒先を仕上げていきます。
軒の端を揃えて、完成です。
刈込みは人数がそのまま工期に繋がる工程です。1人あたりの仕事量がはっきり現れるのは、助っ人としては評価が厳しくなる分だけやりがいがあります。
宇治田原の「永谷宗円生家」の葺き替え現場にやって来ました。始めて煎茶を煎って作った、緑茶の祖だそうです。
ヤマダさんの「山城萱葺き屋根工事」の仕事です。
棟が上がって、今日から始まる刈込みをお手伝いします。
ハサミをかける時に正しく刈れているかどうかは、目で見て確かめることしか出来ません。複数で並んで作業することで、複数の目で異なる角度から確認し合いつつ仕事を進めることが出来ます。
自分の手元だけではなく、屋根全体のバランスに目を配ることが大切です。
ところで宇治田原の現場に通うために、烏丸今出川にある、ヤマダさんの弟子のナカモリ君の家にお世話になっているのですが、京都というのは朝晩駐車場まで歩くだけでも楽しい街です。
歴史ある街並が「住みこなされている」雰囲気に惹かれます。
引き続いて大野のSa邸です。
田植えの時期が近づいても、寝かされたままの休耕田が増えて行くのは寂しい(少々恐い)ものですが、こうして一面の花畑になってしまうと、それはそれできれいだな、とも感じてしまいます。
さて、雑木の下地です。あまりにひどい凹凸やずれた垂木は直す必要がありますが、今回はそこまでひどくはありませんでした。
下地の竹は傷んだものを取り替え、使えるものは再利用して、緩んだ縄をかけ直して行きます。
そして、軒先に真っ直ぐな茅を選んでかきつける編み付け。
そして葺き材の茅を屋根に対して角度を持たせて葺いて行けるように、テーパーのきつい稲ワラをとりつけます。
稲ワラの上の2列の竹は、上が下地竹とはさんで稲ワラを止めているもの。下は仕上がった屋根を軒下から見上げた時、稲ワラと茅との境のラインが真っ直ぐ通るように挟み込む割り竹です。
稲ワラの上に解体した古屋根から選別した穂先の茅、短めの茅、そして新しい長めのきれいな茅の順に並べて押さえます。
これで軒の裏側となる部分は出来あがりました。
美山町の大野地区にある、S邸の葺き替え現場にやってきました。
ナカノさんの「美山茅葺き株式会社(旧きたむら茅葺き屋根工事)」の現場です。
既に足場が組んでありましたので、今回葺き替える面の古屋根をめくります。
屋根下地のレン(垂木)に使われている丸太は、時代を下るにしたがって雑木(クリ、ナラなど)、アカマツ、スギと変遷して行きます。下地が平らでなければ、上に葺く屋根を平らにするのも難しいのですが、曲がりの大きい雑木で組まれた古い屋根では、平らな下地は望むべくもありません。
まあ、この程度の凹凸ならなんとかするのが職人技ということですね。
屋根裏にはお施主さんが刈り貯めて来られた茅が保管されていますので、屋根をめくったところでまずそれを搬出します。
積んであった茅が無くなったところで、数十年ぶりに天井裏の掃除もしておきます。
昔の民家の天井板は荒板を並べてあるだけなので、板と板の隙間にホコリが詰まっているくらいの方がちょうど良いという人もいますけれど。まあ、ほどほどに。