年が明けて、ようやく武相荘の雑木林も裸となりました。
すっかり葉を落とした林の枝越しに見る、冬晴れの空の青の清々しさ。
武相荘には葺き替えで生じた古茅を、堆肥として活用する畑はもうありません。
古茅は丁稚のワカモノたちが、茅運びの合間を縫ってカブトムシの幼虫と一緒に、竹薮にきれいに敷きつめました。
個人的な好みなのですが、人間が型にはめたような作為的な公園には落ち着けない一方、全くの成り行きに任せたままの自然には「荒んだ」印象を覚えてしまいます。
自然とともにある人の営みが、積み重ねられてできたような風景が好きです。
僕としてはこの竹薮は、古茅=建築廃材(ゴミ)が捨てられる前より「美しく」なったと感じるのですが、いかがなものでしょうか。
毎度のことながら棟まで葺き上がってみると、毎日少しずつの作業の積み重ねでこれだけ大きなものが出来たものだと、あらためて我ながら感心してしまいます。
作業は終盤のヤマ、棟収めへと続きます。
竹やぶ素敵になりましたね。
美しい「庭」だとおもいます。
白州正子さんがみたら喜ぶのではないかと思いました。
屋根屋さんのおっしゃるとおり、もともと人間がつくった人為的な自然は手を入れてあげないと(しかし、やりすぎず)荒れた感じになってしまいますよね。
特に竹やぶの地面は竹の皮がなかなか朽ちず残ってしまいますから、その感が強い気がします。
ceico さん、コメントありがとうございます。
本職の方に誉めて頂ければ、こだわってきれいに敷きつめたらしい丁稚のワカモノ達も喜ぶと思います。
以前、枝打ちについて頂いたコメントに、慌てて頓珍漢なリコメントしてしまいましたが、自然のままに枝を伸ばした木の姿は、人には決して作れない美しさだと思っています。
特にこの季節、落葉樹は枝振りがよく見えるようになって、身近な木が葉のある時期には思いもよらない「冬美人」だったことに驚かされて楽しいです。
しかし、群れとして林になった場合、自然のままに茂る原生照葉樹林よりも、手入れが行き届き林床に明るい日差しの届く雑木林により強く惹かれます。
雑木林の林床も自然に落ち葉が降り積もっているのも良いのですが、落ち葉が掃き集められて所々に山をつくっていたりすると、さらに愛しい気持ちになります。
そこに暮らす人の気持ちが、風景の中に滲み出しているからだと思います。
武相荘に限らず茅葺き民家が、その庭や周りの環境と深く繋がっている風景を絶やすことの無いように、微力を尽くして行きたいと思います。
屋根屋さんのことばには、体を使って丁寧に仕事をされた人だからこそ感じることや、ほんものの響きが伝わり、はっとします。
いつも自然の中におられるのですね!
葉が落ちて、枝だけになった木々たちを見て「冬美人」だなんて、すてきですね。屋根屋さんの感性に触れた想いがします!
ありがとうございます!
とまとん さん、コメントありがとうございます。
お誉め頂いて恐縮です。それほどたいしたものではありませんが・・・
武相荘の庭に立派な柿の木があるのですが、カキなんかは典型的な冬美人だと思います。
サクラやケヤキも街中では剪定されておとなしいかたちにまとまっていますが、たまに田舎の村はずれなどで気持ち良く枝を伸ばした木の冬枯れの姿の良さに驚かされて楽しいです。