主構造材の解体は、縄による結束を切断しながらレッカーを使って行うと、安全に効率よく進められます。
かつてはこれを組むのもばらすのも、人力のみによっていたわけで、大変な作業だった事でしょうが、その手順がどのようなものであったのか、興味は尽きません。
棟木を支える合掌材の根本は、渡りあごを噛んで桁の上に乗せてある梁の端に差してあります。
美山の場合はホゾを切って差してありますが、地域によっては合掌材の根本を鉛筆のように尖らして、梁材のくぼみに置いてあるだけのことも珍しくはありません。なるべく柔らかな構造とするように、配慮されているのです。
この合掌材の上にヤナカ(母屋)が乗り、その上に並べられ桁の外に至るレン(垂木)とともに縄で結束され、一体となって建物に籠を被せたような構造となっています。
レンとヤナカとの結束も縄によります。釘と異なり抜けたり折れたりする心配がありません。
レンの頭はこのように、尖らせたものと穴をあけたものを2本1組として棟木に架けてありますから、縄による結束でも滑ってずれるということもありません。
茅葺き屋根が取り除かれた「茅葺き民家」。屋根と建物部分が全く別構造である事がご理解いただけたのではないでしょうか。
この上にあらためて「基礎」を組み、2階を「建てる」ことになります。
そのため、もともと2階建てを前提とした構造に比べると、茅葺き屋根を下ろして2階を乗せた家は、随分と腰高になってしまい、1階の天井(吊り天井)と2階の床とのあいだに、利用されない大きな空間が生じてしまいます。
美山では子供部屋を確保するために、茅屋根を下ろして2階を上げたという方が多くおられます。こちらのお宅では、定年を迎えてUターンされるご子息のために、2階が必要となったということです。これからはそのような需要も増える事でしょう。
その際、「砂木の家」で試みたような、吊り天井の上の空間をロフトとして活用するプランが実用化すれば、茅葺き屋根のままに、必要な居住スペースを確保できるようになるのではないかと考えています。
2階を上げる工事を行うよりも安価に済ませられるはずですし、何より「後戻りできない一線」を越える必要がなくなります。
茅葺き民家の不動産としての将来性は未知数ですが、欧州諸国での事例を見るまでもなく、その価値が急速に高まる事は充分にあり得ます。一旦茅葺きであることを止めてしまうと、元に戻すのは非常な困難を伴いますので、所有者の方にとっても必要な性能を満たしさえすれば、「茅葺き民家」のまま維持しておく価値は充分にあると思うのです。
農村部へいくと、明らかにこれは茅葺き民家を2階建てにしたのだなとわかる家がありますね。(春にヒアリングしたお宅にも何軒かありました)。
茅葺民家の聖地?でもある美山でも、そのような需要が増えていくとしたら、ロフトスタイルの早期実現化&普及が望まれますね。
砂木の家の果たす役割は大きい!
花がたみ さん、コメントありがとうございます。
茅葺きから2階建てに改造して出来た建物の意匠にも、地域性が色濃く現れて面白いです。新築の家にも反映されますし。北陸の「大壁造り」などはその典型ですよね。
ただ、子供部屋という新しい時代の要請に応えるために、姿を消した茅葺きが意外に多い事に、最近気が付いてちょっともったいない気がしています。
子供部屋が使われる期間なんて、本当に短い間の事にすぎないのに。建物は今までもこれからも、ずっと長い時間を過ごして行くはずのものですから。
住人の方に負担をかけず、むしろ住人の方のメリットにもなるような形で、短期的な需要に振り回されない、茅葺きのリフォームの在り方を確立して行けたらと思います。
ceico さん、コメントありがとうございます。
不定期更新のブログでご迷惑をおかけしています。もう少し何とかしなければとは思うのですが、なかなか・・・
家庭科の教科書に一人暮らし用のレシピを載せたら、検定ではねられたという記事を以前に読みました。学校教育の場で教えるのは、「家族の食卓」を前提にすべきだと。
でも、一緒に暮らす家族の在り方は、人生のなかで次々と移り変わって行くものだし、ひとりの時期もあたりまえに訪れますよね。
「両親に子供が2、3人」という家族の偶像が幅を利かせすぎると、本来なら町や風景に属するはずの家が、家族の変化に合わせて消費されて行くという、妙なことが起きてしまっているように感じます。
チェックしているつもりでも屋根屋さんのは知らないうちにアップされてます・・・。
子供部屋って本当に問題だと思います。
(今のよくあるハウスメーカーのつくる改築がきかない家では特に)
皆さん将来のこと考えているんでしょうかねぇ・・。
と屋根屋さんに訴えても変な話ですが。
こんばんは、先日はお疲れ様でした。なかなかゆっくりとお話も出来ませんで、、、と今回は諸事情で急遽、九州にもどらなければならなくなりまして、行くことができませんでした。次回の機会には是非。